ここでは私、安部美幸のプロフィールを紹介します。
福岡県生まれ。
木工職人の父、農家で育った母との間に生まれた4人兄弟の末っ子として生まれました。
父が45歳のとき、木くずが原因で左目を無くし、義眼で家族6人の生活を支えてくれていました。
私の人生の価値観は、この父との思い出が根底にあるように思います。
借金に怯えた子供時代
小学生の頃の私は、自分の家は特殊だと感じていました。
その理由は父の存在が大きいです。
現代の言葉だと毒親と言うのでしょうか。
父は将来への不安を強く感じている人で、そのイライラを家族にぶつけていました。
家業は最初は木工所でしたが、いつしか家具店になりました。
その間に借金をしたのですが、返済の目処が立たず、いつしか借金は1億3000万円まで膨らんでいました。
父は借金の不安からか、お酒を飲んでは大声を出し、家具を何度も叩き壊す姿に怯えていた幼少期でした。
そんな家庭環境だったので、テレビなどの娯楽には触れられず、友人との会話についていけませんでした。
仲の良い友達もいたのですが、その友達にも「もっと周りの人と仲良くして、私を頼りすぎないでほしい」と言われショックを受けた事もありました。
我ながら友人の少ない小学校時代だったと思います。
中学校、高校ではバスケ部に入りました。
部活の時間は、学生時代の唯一の楽しみで、良い思い出です。
高校を卒業する時、私の進路は家業を手伝う事でした。
4人兄姉でしたが、長男長女は父に愛想をつかして家出をしてしまい、二番目の兄と末っ子の私と母が、家に残って家具店を手伝う事になりました。
友達が就職のために面接を受けることが、とてもうらやましかった事を覚えています。
不安で眠れない
高校を卒業すると、家業の家具店の経理を担当することになりました。
この頃は、お金の不安で眠れない夜が続きました。
父は、借金の不安からか、よく寝言で「ちくしょう、ちくしょう」と言っていたのですが、その気持ちがだんだんと分かるようになります。
経理の私は、10日ごとの手形や銀行の返済のために自分名義の5~6枚のカードローンを繰り返していました。
布団についても、なかなか不安で寝付けず考える事は借金の事ばかり。
「今月はあと何十万円足りない…」
と布団の中で暗算し、現状把握する事が眠りにつくまでの習慣でした。
衝撃を受けた日
そんな頃、今でも鮮明に記憶に残る衝撃を受けた日があります。
福岡県大川市に、お世話になっていた大きな問屋さんがありました。
資金ぐりに困ると手形を割ってもらったり、高級なうなぎのせいろむしをいただき、広い店内を見てまわったり色々とお世話になった事を覚えています。
その問屋さんが、一夜にして倒産。
寝耳に水という感じで、実感が湧きませんでしたが、大きなお店が急に無くなるのは衝撃でした。
父から不渡りは怖いと聞かされていましたが、実際にそうなると、住む家も店も差し押さえられ、全てを無くすことが現実だと知りました。
結婚と子育て
そんな日々の不安を送っていると、家具のメーカーの営業の方とお付き合いをする事になりました。(今の夫です)
うちは結婚ができる家庭ではない、そんな事は許されないと思い込んでいましたが、結婚すれば実家から出ることができると24歳の時に気づきました。
毎日父の癇癪におびえる必要がない、仕事にだけ行けばいいんだと結婚を選択。
父の負い目を感じていたのか強烈な反対はなく、家を出ることができました。
その後、3人の男の子を出産。
主人の転勤で、香川県に引っ越してきました。
その後の実家はというと、私が結婚した後にバブルに突入。
銀行さんの配慮で運よく店が売れて、借金もチャラになり、家だけが残りました。
初めての子育て
借金のせいで親戚づきあいも友人と連絡することも途絶えたせいで、大人になるまで身近な赤ちゃんと触れる機会がありませんでした。
私の赤ちゃんとの関わりは、長男が初めてでした。
当時は暗い性格だったので、何もわからない赤ちゃんに話しても無駄だと思い、言葉かけの少ない育児をしていました。
そのためか母は「長男は言葉が遅い」と心配していました。
一番辛かったのは三男です。
生まれてすぐに病気がわかり、障害者になるかもしれないとの脳外科の医師から言われました。
不安が私の頭の上に重く重くのしかかったままの子育てでした。
しかし、三男は私の不安もなんのその。
すくすくと成長し3歳で幼稚園にいくようになりました。
この辺りから私も時間が出来て、近くのスーパーにパートで働けるようになりました。
週に2時間だけでしたが、自分の力でお金を稼げる事がとても嬉しかった事を覚えています。
しかし、お金を稼げても知識がなかったため、私はまだまだ痛い目をみます。
第2部お金編に続きます。